2015年11月12日
「講師グランプリ IN 東京」 優勝を頂きました


先日の、「講師グランプリ IN 東京」で、優勝を頂きました。
プレゼンターの皆様の 楽しく、素晴らしく、驚き、の連続のプレゼンテーションだったので結果は本当に不安でした。
最後に名前が呼ばれた時は正直“過呼吸”になったくらい嬉しかったです。
今年をラストチャンスと設定して挑んだ今回のグランプリ。
障がいを持つことになって以来、こんなに身体が辛い年は初めてだった2015年。
活動したい時間が、体力を上回ってしまったことが原因なのか。
2月ごろから、体調がすぐれない事が続き、お仕事を入れても行けないんじゃないか・・・と。
それが怖くて、昨年よりも数段活動量を減らし始めました。
それでも、結果それでよかったのです。
そのくらい身体が動かなくて・・・。
不甲斐ない思いをしたり、ご迷惑をおかけしたり・・・
仲間や友人に心配をかけたり、本当に情けない思いをしたくさんしました。
自分ではコントロール出来ない身体にイラ立って、凹んで、泣いて。
出来る限り 「へっちゃら」 な顔をしてきましたが、本当に辛い日々が続き、心が折れそうになっていた時の、講師グランプリの受賞。
私なりにがんばってきたご褒美でしょうか?!
今年もあと1ヵ月半。
出来ることを地道に続けて行こうと思います。
応援してくださった皆様、本当にありがとうございました!!!
2015年08月23日
だんだんと動かなくなってきた左腕
6年前に退院した後の診察で行から医師から言われたことがあります。
ずっとずっと後の話、おばあちゃんになったくらいの時にですが、左腕が思うように動かなくなるようになるかもしれません。股関節も人工股関節に変えることになります。
・・・と。
その日が来ることを出来るだけ先延ばしになるるように、今でも自宅でリハビリをしています。
しかし、6月初めの頃から肩に今まで以上の違和感がうまれ、手がむくみ、しびれがはじまり、力を入れようとすると指先が震えるようになりました。
様子を見ていたのですが、改善される兆しがないので、予約をはやめて大学病院を受信しました。
「キビシイ状態ですね・・・」といわれました。
治療方法は投薬治療しか方法がないそうですが、お薬もほとんど効かない現状です。
おばあちゃんになるくらい・・・と、もっと先の人生でおこることと思っていましたが、現実には48歳。
現実はキビシイナ・・・・・
6月から、泣いて、凹んで、へこたれて、いじけて、八つ当たりして、自己嫌悪・・・の繰り返しの日々でした。
何もする気が起きず、抜け殻のようでした。
たくさんの方に支えてもらって、やっとお盆前くらいに、少しづつ現実と向き合うことが出来るようになりました。
今まで動いていたことが奇跡だし、その期間があったから、今の私が存在するのだなぁ~と、だんだん思えるようになってきました。
いつか股関節も人工のものに。
それは遠い先のことではなく、来月かもしれない・・・そう思うと、以前にも増して「毎日を大切に過ごしたい」と思えてきました。
たくさん心配を頂いて本当に嬉しかったです。
この3ヶ月の遅れを取り戻すよう、9月からは今出来ること・先送りにしてきた多くのことを、ひとつひとつクリアしていきたいと思います。
ご迷惑をおかけした二もかからわず温かく見守ってくださった皆様、本当にすみませんでした。
そしてありがとうございます。
残りの夏は、楽しいことをしてテンションあげて9月を迎えます!
2015年03月07日
健常者だった頃と比べてしまう障がいを持った今の私
この、約1ヶ月間・・・何にも集中できず、やらなければいけない事を先送りにしていた。
その理由は、健常だった頃の自分と、障がいを持った今の自分を比べてしまう出来事が起こった。
出来ていたことと、出来なくなったことを、改めて突き付けられた・・・。
健常者の時であれば本能のままに(考えなくても)出来ていたことが、転落事故(ビルの4階相当からコンクリートに頭から転落)で記憶障害が残り、過去の記憶が部分的に途切れている私。
健常だった時に、本能的に(当たり前に)出来ていたことが、やろうと思ってもで出来ない・・・わからない・・・。
そんな出来事があってから、約1ヶ月間・・・。
集中力がまったく無くなり、行動することが出来なくなった。
どうしても外出しなくてはいけない時、元気な“フリ”をしていた。
仲間が心配するから・・・。
「元気でいなくてはならない」という“トラワレ”。
出来ていたことが出来なかった事に対しての『自己批判』。
「あんなに得意やったのに、なんで出来へんの? なんで思い出されへんの!!!」という、やりきれない思い。
ぶつける所の無い悲しみ・・・。
何も手につかず、ただただぼんやりして終わる毎日。
なにか立ち直るきっかけを求めて、「元気な私」を演じて、友人と会ったり、外出するようにしたり。
残念なことに、まったく効果なく日々が過ぎて行った。
なんでやろうか・・・?!
どれだけあがいても、何ともならへんかった私の心。
その“心”が動いた!!!
私の師匠のセミナーにスタッフとして参加した時、心が動いた。
何故だかはわからない。
でも、心が動いた!!!
「なんで、こんなことで、動かれへんかったんやろう?!」
と、思えるくらいに心が切り替わった。
それは3月6日の出来事。
今日(3月7日)学びに行った会議では、前に進みたいと思う障がい者の私に戻っていた。
「動けない」「集中できない」・・・そんな私はどこにもいなかった。
健常者だった頃と比べてしまうことは、正直よくある事。
でも、今回の突き付けられた現実は、本当に私にとって厳しいものだった。
でもね・・・。
きっと、無理やりでも行動したことが、今の自分を取り戻すきっかけを得ることにつながったんかな・・・と思う。
しんどくても・・・元気な“フリ”をしてでも・・・人と関わる事って、やはり大切だなんだと実感した。
ひとりで部屋に閉じこもっていても、解決の糸口はつかみにくいのでは・・・と、私は思う。
辛い時ほど、きっかけを求めて、「他者と関わる」 「とにかく外に出る」。
病状によっては、園に出ることが難しいかもしれない。
・・・のであれば、誰かに来ていただいてもいいと思う。
空気をかえる。
環境を買える。
工夫次第で出来るかもしれないから、“工夫すること”を考えてみて。
きっかけは、どこに転がっているかはわからない。
お部屋に閉じこもってTVやネットからの情報できっかけを掴むかもしれない。
でも、障がいを受け入れていた自分に戻るには、刺激の多い『外の世界・生の人々』との係わりの方が、心を切りかえる“きっかけ”を得ることが出来るのではなかと私は感じた。
障がいを受け入れていた私にもどれた3月6日の夜。
大好きな友人が泊まりに来てくれた時には、心の整理が整っていた。
その友人がプレゼントしてくれたワインを2人で飲んだ時の 「幸せな感覚」 ・・・。
この「感覚」は、絶対に忘れたくない。
明日も、大好きな優人達が遊びに来てくれる!
今、ワクワクが止まらない。
もうひとつ。
両手の指でも余るくらいの方に、弱い私を見せることが出来。
その中には、古くからの優人、障がいを持った殻の友人。
そして、お仕事でかかわってくださった方もいる。
弱い私を見せれる方。
「出来ない」と言える。
2人で食事をしたことの無い方だけれども「出来ない」と、何故だか言える。
本当に不思議。
でも心からありがたく思っている。
“きっかけ”・・・これは、もしかしたら待つものではなく、探しに行く方がいいのかもしれない・・・。
はやく明日にならへんかなぁ~~♪
月曜日からは、先送りにしていたことを、イッキにかたずける!
そう思える私にどんなご褒美をあげようか?! ♡
ご褒美思案中な、今の私♫
2015年01月18日
たくさんの笑顔と友情に感謝
先日1月12日、私の「出版記念お食事会」を開催させて頂きました。
30名もの多く皆様にご参加いただき本当に、ただただ感激でした。
心より、ありがとうございます!
私が健常だった時からずっと支えてくれた友人、障がいを持ってから仲良くしてくださっている友人。
東京・名古屋・福岡から参加してくださった友人も・・・。
みんなみんな本当にありがとうございます!!!
ご参加いただいた皆様のおかげで、笑顔と愛が溢れた会となりました。(ちょっぴり涙も)
当初、友人達が「パーティーを盛大にやろう!!」と言ってくれていたのですが、私は「そんなに友達おれへんし、居酒屋さんでこじんまりと」と、言っていました。
私がいつも口にする「友達少ないし」・・・。
この言葉には理由がありました。
私が「友人」と思っていても、相手が“障がい者と関わりたくない”と思ているかもしれない・・・相手にとって障がい者が周りにいる事が迷惑かも知れない・・・いつもこの考えが頭から離れませんでした。
相手も困っているかもしれない、それを知って私も傷つきたくない・・・だから確信を感じるまで距離を置く癖がついていました。
でもそれは本当にバカな考えだったことに、気付かせてもらえたお食事会でした。
忙しい中来てくださった友人達。
運営をお手伝いしてくれた友人達。
私が、お食事会の1週間前くらいからダウンしてしまい起き上がれない日が続き、まったく動けなかった私に変わって、“全て”を分担して準備をしてくれました。
参加してくださる友人のリスト、当日の役割分担、お釣りの用意、司会進行プラン、会場の予約からセッティング、すべてすべて先回りして行動してくれていました。
みんながいなければキャンセルしていたかもしれない・・・。
でも、私の代わりに動きまくってくれた友人達、3連休のご多忙の中来てくださった友人達。皆様のエネルギーを頂き素晴らしい会となした。
何度でも言わせてください「ありがとうござます!!!」!!!
そして、サプライズをありがとう!
どないして、仕込んだ??? と、いまだに不思議が残るサプライズ。笑
私の知らないところで、ずっと動いてくれていた友人達。
ありがとう!
お食事会に参加出来ない友人が、個別にランチ会や、飲み会を数多く企画してくれた事も本当に嬉しくて仕方がありません!ありがとうね!
私の為に、時間をさいてくださった全ての皆様に感謝の気持ちを届けたいです。
本当に、本当に、心からありがとうございました!!!
たくさんの友人が、いつも側にいてくれる・・・本当にありがたいです!
今後ともどうぞ、よろしくお願いいたします。
2014年05月12日
転落事故から6年目に入って、はじめて聞いたこと
今日は涙の日。
今日は、私が転落した瞬間を見たNちゃんと、その時香港で働いていたYちゃんが来てくれました。
パンはYちゃんが焼いてくれました。
Nちゃんはそのパンにつけるディップを3種類つくってくれました。
それを頂きながら、おしゃべいしていたら、私が転落してときの話になって。
Nちゃんは、転落して、耳や鼻から血を流している私を見て、腰が抜けてしまっていたのに、救急車い一緒に乗せられ、まゆみさん(←母)に連絡してくれたの。
何とか持ちこたえた私は28日間ICUにいたのですが、毎週末には必ずお見舞いに来てくれたNちゃん。
ICUの面会時間は14時から16時までと決められていて、一度に2人しか面会できない状態のなかで、
面会時間までの待ち時間の間に、Nちゃんは国際電話で、Yちゃんに、
「私は今どうしたらいいのかわからない」と、わざわざ国際電話で私のことを気遣ってくれたと、
今日はじめはそんな話をきいた。
ありがたすぎて涙した私。
その上、たっと立てるようになったくらいの時に、
「Nちゃん、Yちゃんとこ(香港)いこうよ」と言ったらしい。
らしいと言うのも、私は記憶障害があってそのことを覚えていなかったのです。
Nちゃんは、Yちゃんに 「あやぼんの為に、心を鬼にしていくことを阻止て」 と伝えたそうです。
私にはまだ無理だと言う事を、Nちゃんは見抜いていたのです。
Nちゃんは、ずっと私を見守っていてくれたから判断できたのだと思うのです。
そして、Yちゃんからのメールで 「香港は二階建てバスとかの移動になるから・・・・」
など、私が香港に行かないように柔らかく断ってくれたそうです。
そんなことを言った記憶もなく、そのようなメールをもらったことも覚えていない私。
こんなに友人に見守ってもらっていたんだと、6年目にはいって初めて知った事実。
Nちゃんが、どれだけ辛かったか。
Yちゃんがどれだけ遠くで心配してくれていたか。
本当にみんなに見守ってもらいながら生きさせてもらていることを、
今日、改めて思い知りました。
今の私があるのは、Nちゃん、Yちゃん、沢山の友人の支えがあったからだと思うのです。
私の知らないところで辛い思いをしてくれていたNちゃん。
遠く離れた香港で心配するしかなかったYちゃん。
2人が帰った後、涙か止まらなかった。
私は、「泣くのはトイレだけ」と決めていたので、
2人が帰った後、トイレにこもって1時間半、
二人がどれだけの私を陰で支えてくれていたのかを
新ためてありがたく思っていたのです。
泣きすぎて、この時間まで(只今夜中の3時)眠れない私。
まだまだ私の知らない事を大切な友人は心にとどめてくれているのだと思うと
ありがたすぎて、私にはもったいなさ過ぎて、
なみだが溢れてくるのです。
「ありがとう」と言う言葉ではたりないけれど、
他に言葉がみつからいないのが悔しいくらい、感謝しています。
転落事故から6年目に入っても出てくる 「今だからいえるけど・・・」
本当は、まだまだあるんだろうな・・・。
でもね、私頑張るから!
絶対頑張るから!
これからも、仲良くしてね。
辛い思いばかりさせているNちゃん。
本当にありがとう!
遠いところから心配し続けてくれたYちゃん。
本当にありがとう。
いつも感謝してきた友人達。
でも、今日、私はあらためて友人の支えがあっての私であることを思い知りました。
もし、同じようにハンディをとっている方にお伝えしたいです。
私達は絶対にひとりではない!
いろんな方が、いろんなところで、「心配」 してくれていて、
見えないところで、支えてくれているのだと言う事を忘れないでくださいね。
ハンディがあっても、ひとりではないのです!
孤独ではないのです!
自分から、社会に飛び込む勇気をと持ちましょう!!
自分から飛び込めば、応援てくれる人が必ず現れます。
それが古くからの友人であったり、新しく仲良くしてくださる方だったり。
勇気を持って、飛び出してください!
絶対に受け止めてくれる方があらわれます!
嬉しくて、ありがたくて、泣きながら思いを書かせていただいているので
今日だけは(いつもですが)、誤字をお許しください。
涙で文字がみえないから。
Nちゃん、Yちゃん、今日はちゃんと言えなかったけど、ちゃんと支えてくれていたKちゃん。
本当に、こころからありがとう!!!!
2014年04月28日
転落事故から丸5年がたちました
今日でハンディを持つことになった転落事故から丸5年です。
ちょうどいまくらいの時間に転落。(21時過ぎくらい)
明日からは6年目となります。
まゆみさんは覚えているのかどうかわからなかったのですが、
お礼が言いたくて今日夕食を外で食べようとさそいました。ですが、
まゆみさんの友人が亡くなられて、お葬式だったので、お弁当を買って実家で一緒に頂きました。
転落して、病院に搬送され、頭の手術に9時間。まゆみさんはひとりで
「手は尽くしました。危ない状態です」と言う言葉を聞き、それでも諦めずに私を信じて耐えてくれました。
なんとか持ちこたえる事が出来た私は、
2日後、左の骨盤の粉砕骨折とそれにともなう股関節脱臼の手術を14時間かけて行いました。
その後の主治医の言葉が「寝たきりか、良くて車椅子です」と。
この厳しい宣告にも耐えてくれました。
そしてその2日後、肩の粉砕骨折、肘の粉砕骨折、
肋骨が折れて肺に刺さっていたところの手術を6時間。
今の私があるのは、兄貴、第二の母の叔母(まゆみさんの姉)、
大切な友人、そして全て全て全てひとりで耐えてくれたまゆみさんのおかげです。
誰ひとりかけていても、今の私は存在しなかったと思うのです。
心から「ありがとうございます」と何度も何度も言いたい。
食事を終えてお茶をしていた時に、
「後で見てよ」と言ってまゆみさんにお手紙を渡しました。
「今日で丸5年なんよ」
「知ってるよー。あやが忘れてると思ってた」
「まだまだ迷惑をかけるとおもうけど、ごめんね」
「生きてるだけでいいの。よく頑張ったね。その痛みは無くならないけど、一緒に頑張ろうね」
と、二人でポロポロと大泣きました。
今日のコーヒーはちょっぴり塩味。
今日まで私を支えてくれ、
そして仲間として接してくださった皆さんに心からお礼申し上げます。
本当にありがとうございます。
6年目もどうぞよろしくお願いいたします。
2014年04月24日
障がい者のための国際シンボルマーク

このマークは 「障がい者のための国際シンボルマーク」 です。
駐車場などで使われているスペースは、
車椅子を利用している方だけではなく、
全ての障がい者が対象になるのです。
私は、よほど遠くしかあいていない時や、重いものを買う時など以外は、
出来るだけその隣に止めるようにしています。
大きく扉を開けた方が乗り降りしやすいのですが、あえての隣。
車椅子の方の乗り降りの方が扉を大きく開けた方が乗り降りしやすいと思うからです。
最近、立て続けに嫌なシーンにかちあってしまいました。
ひとつは、駐車場スペースが10個くらいのスーパーで、
ひとつある障がい者スペースに、原付が停めてあったのです。
その真横には、自転車&バイク用のスペースがあるのに。
超気が強くて、超負けず嫌いの私は、
スーパーに伝えて、どけるように放送してもらいました。
するとすぐ出てきました。
私は温和に「このマークは何のマークかしってますか?」とききました。
ふてくされたように 「今後気を付けます」
「知っているか聞いたんですが」とあくまで温和に。
「答えする必要はありません」
と、ぴゅ~~~っと行ってしまいました。
別の日に、よく利用しているドラッグストアの20近くある駐車場で、
他が開いているにもかかわらず、
商品の搬入に来た業者さんのトラックが、
障がい者スペースに止められていて、荷卸しをしていました。
いくら入口に近いからってこれはアカン。
お店の方に言ってすぐにどけていただきました。
呼んでくださっている皆様、何の為のマークなのか、
今一度考えてみて下さったら嬉しいです。
2014年03月15日
鎧を脱いで助かるか、着たまま溺れるか

最近私が戦っているもの。
「どうして、私は障がいを持ったんかなぁ・・・」
と、自分の障がいと闘っています。
死にたい・・・のでは決してなく、生きることに疲れてる私がいます。
「この世の中から私が消えたところでなにか大きな支障があるのかなぁ?」
など、何度も書きますが死にたいのではなく、生きることに疲れてしまっている私・・・。
ある方が、
「岡崎さんの言葉を聞いていると、〇〇でなければいけないという、鎧を着てるように思う。
鎧も大切だけど、溺れそうになったら脱ぐことも大切じゃないかな」と。
おっしゃる通りです。
脱ぐことができたら、またひとつ人として大きくなれると思うのです。
障がいを持ってから、「出来るだけなんでも自分で出来るようにならなくては!」 と、がむしゃらに頑張ってきました。
心理学的に言うと「とらわれ」。
そんな中で、出来ない事はお願いできるようになりました。
でも、出来ることを好意で手伝ってくれようとするお声掛けには、
笑顔で 「ありがとうございます、大丈夫です、出来ますから」 と、
甘えることを、なくかたくなに拒んでいる私。
私は多分、溺れそうになっても、鎧は脱がないと思うのです。
鎧を着て溺れそうになっている中で、
どうすれば、鎧を着たままで助かることができるか・・・を、溺れながら考えると思います。
それはきっと、私の気の強さや、負けず嫌いがそうさせてしまっているんだと思うのです。
おそらく“鎧”は、私にとっての「障がい」なんだと思うのです。
「鎧を脱ぐ」 = 「障がい者をやめる「 = 「死ぬ(←死のうと思っている訳ではないですよ!!)」
その鎧が、近い将来、軽くて丈夫なものになって、
溺れそうになっても、鎧を脱がなくても、生きていけるような世界になればいいなぁと思うのです。
だって、鎧を脱いで水面に上がった時に、矢がとんできたら、それこそ死んじゃう(笑)
「鎧をぬぐことも、時には大切」と教えてくださった方に心から感謝しています。
でも、もう少し鎧を着たまま模索してみます。
何のために生かされているのか・・・。
何をしろといわれているのか・・・。
まだ答えが出なくてちょっと心が苦しいけど、
「どうして障がいを持ってしまったのか」を深く掘りさげてみようとおもいます。
2014年03月04日
パーキンソン病役で、マイケル・J・フォックス氏ドラマ主演

以前にもブログでお伝えした、アメリカの俳優マイケル・J・フォックスさん。
80年代に上映された映画「バック・トゥー・ザ・フューチャー」で、
一気にスターの座に躍り出た俳優さんと言えば記憶にあるでしょうか?
その後も「摩天楼はバラ色に」など、ヒット作で主演したのですが、
年配になってから患うことが多いと言われているパーキンソン病を、
30才の若さで患ってしまい、後に声優さんとして活動されていましたが、
それもままならなくなり、芸能界から引退。
しかし、パーキンソン病の研究財団を立ち上げ、
自分の生活のドキュメンタリー番組の作成に協力し、病気への理解を訴えかけ、
その番組の出演料は全額研究財団へ寄付していました。
そして一昨年、映画でいうアカデミー賞にあたるアメリカドラマ界の名誉ある「エミー賞」で、
“コメディー部門”のプレゼンターとして招かれ
コメディー賞だったからでもあると思うのですが、
第一声が「緊張してないんだ、だから震えてないでしょ」と、
ジョークを言ったことを今でも鮮明に覚えています。
そのマイケル氏が、25年ぶりにTVドラマに主演で復帰されるのです。
進行性の難病なので、治癒したわけではないのです。
なんと、マイケル氏が演じる主人公は、
パーキンソン病のために引退したニュース・キャスター、マイケル・ヘンリー。
まるでマイケル氏自身をモデルにしたような役どころなのです。
そんなマイケル氏が個性派ぞろいの愛すべき家族と、
TVキャスターとしての仕事に向き合う姿をコミカルに描いたのが「マイケル・J・フォックス ショー」。
全米では、放送開始前から俳優マイケルの復帰が注目を集め、
マイケルはテレビ誌“TV Guide”の表紙を飾り、
情報誌“Entertainment Weekly”が本作を、
2013年秋放送の優秀新番組の1本に選ぶなど、大きな話題を呼んだ。
4月から日本でも放映されることが決定しているので、今から楽しみでなりません。
日本から、沢山のエールが届きますように!
2014年01月08日
悪気はないのに取られ方しだいで炎上しちゃう

私は顔に傷がないので、セミなーなどで机のあるところに座っていると健常者と思われることが少なくありません。
写真は、先日メーカーのイベントで、プロのカメラマンの方にとってもらったものですが、
他の方は全身写真もあったのですが、私はオール上半身。
気を使ってくださったんだろうなぁ~。
私自身、気を使ってくださった時には、ありがたく感じるし、申し訳なく感じたり・・・。
逆に気を使わなさすぎる方もいらして、顔面パンチをっくらって、帰っていじいじ泣いてる時もあるのです。
先日の顔面パンチは、友人がみんなで遊びに行こう!と言う事になって、私が女子幹事となり、
お会いしたことのない男性幹事の方とメールでやり取りをすることになりました。
私が、さっさと動けない事を聞いているのかわからなかったので、「実はは私・・・」とはなしました。
「あ、聞いてますよ。あんまり気にしませんから」 と。
「あんまり・・・・」 微妙な表現。
「あんまり気にしない」けど「まったく気にしない」 訳ではないようです。
確かにあったこともないので 「まったく気にしない」といわれてもそれも嘘くさいし。
ほんまに日本語って難しいですね。
また、別の仲間内の新年会で、幹事さんが「ミステリーツアー」をたくらんでくれました。
行きたいけど、行けない場所だったりしたらいけないので、幹事さんにこっそり「行先教えて」とききました。
「大丈夫ですよー、あやさんで“も”行ける所にしましたからー」
「も」・・・・・・これまた微妙・・・。
何ていうんでしょうか・・・、私の我儘を言わせて頂けれは、例えば1個目の件、
「聞いてますよー。ま、とりあえず会って打ち合わせしましょうか」 とか、
2個目の件だと、「安心してください、あやさんと一緒に行ける所をセレクトしてあるので内緒です」とか・・・。
2人とも、悪気はまったくないのはわかっているのです。
おとしめてやろうとか。気を悪くさせようとか・・・そんなんじゃないのは本当によくわかっています。
「しかしなぁ~、もう大人なんだし・・・」と思ってしまう自分も、大人じゃないなぁあと思えてしまう。
日本語は本当に難しい!
まだ、自分の足りないところに目が行きがちだけど、足りているところに目を向けるレッスンをしなくては!
誰も悪くない。
気付いていないだけ。
これは、障がい者VS健常者だけではなく、
健常者VS健常者や、
障がい者VS障がい者の間でもあり得る事だと思うのです。
本人は悪気はまったく何のですから。
明日から、また 「顔面パンチ」 を受け入れることが出来る自分になれますように。
2013年08月28日
差別をしていた私
今日は某大学病院にいきました。
診察ではなく検査です。
約半年前から、脳神経外科の先生に勧められていた検査。
どうしてもこの検査を受ける気持ちになれずに、ズルズルと・・・。
本当に根性入れていった病院。
検査は「高次脳機能障害」の検査です。
検査自体がいやったのではなく、この検査をおこなう科が 「精神科」 だったのです。
この 「精神科に行く」 と言う事に、偏見や抵抗があったのです。
あれだけ差別撲滅を大声で言っていた私自身が 「精神科」 という場所に差別をしていたのです。
私は、この検査を 脳神経外科で行うのだと思っていました。
進められて、「受けます」と答えた後に、「では精神科へ紹介状かきますね」といわれて、「えええええっっ!!」だったのです。
この検査は 「必ず家族と一緒に」行かなければいけないのです。
一緒に行ってもらう母からは 「いつにするの?」 としょっちゅうおしりをたたかれていました。
「寒いから身体が痛い」 「雨で身体が動かない」 「お仕事がたまってる」 「暑すぎて動けない」
ありとあらゆる言い訳をして、逃げていました。
いつも持ち歩いている手帳に挟んでいた、紹介状。
だんだん角が痛んできました。
その、こすれたり痛んできた紹介状の角を見ていて 「もう逃げるの限界かな」。
今日、母と一緒に精神科へ行きました。
たくさんある問診票は、私だけが書くのではなく、「母から見た私の行動」の問診票もあったのです。
私の自覚症状と、母から見た私の症状は全く違う物でした。
ものすごくショックでした。
「そんなんやったんや・・・」
そして、呼ばれ、少しの問診があって審査が始まりました。
いくつかの検査の中で出来なかったこと・・・
1)初めに先生が3つの言葉を言うので覚えて繰り返して言う。
「テレビ・うどん・太陽」 「テレビ・うどん・太陽」 ちゃんと言えました。
「また後で聞くのでおぼえててね」 といわれて3分後位にき、もう一度聞かれたのですが、「太陽」がどうしても思い出せず答えられませんでした。
2)100から7を引いて0なるまで7を引き続ける。
72あたりたりで、引く数字(7)がなんだかわからなくなってしまいました。
あと、2回残っている検査。
ちゃんと、折れない心を維持できるか・・・。
そして、心のどこかで 「精神科」 に偏見を持っていた私。
それに気が付いてから、恥ずかしくてたまりません。
もう一度、自分の心と向き合って、しっかり自分と話し合って行かなければいけないのです!!!!!